第10話 「“勝ち”を超えて──本当に届けたかったもの」

競馬ストーリー連載|第10話
「“勝ち”を超えて──本当に届けたかったもの」
――バズる予想の裏で、ふと立ち止まった夜のこと
▼「勝てました!」「的中しました!」「神予想!」
YouTubeやSNSに届くコメントの多くは、そんな歓喜の言葉たちだった。
自分が出した印、推奨馬が好走したとき。
「ありがとう」「また次も見ます」という声が、モニター越しに届いてきた。
正直、嬉しかった。
「自分の予想が人の役に立っている」
それは、競馬を通じて得られた最高のご褒美だった。
▼ でもある夜、ふとこんなことを思った。
「じゃあ、もしこれが全部ハズれてたらどうなってたんだろう?」
予想が当たらなければ、コメント欄は静まり返る。
再生数も落ちる。
“数字”がついてこなくなると、心の中に黒い霧が広がっていく。
そして気づく──
「当たったかどうか」ばかりを気にしている自分がいる。
▼ これって、本当に届けたかったものだったっけ?
競馬って、もっと深くて、面白くて、人生に重なるものだったはず。
メダルから始まって、リアル競馬に出会って、
夢中で予想を組み立てて、悩んで、当たって、外れて、
それでも「また週末が楽しみになる」あの感覚が好きだった。
▼ “勝ちたい”だけじゃ、たぶん足りない。
勝てる情報を出すことは、大事。
でも、それだけじゃ心は動かない。
人は、数字じゃなく“共感”でつながる。
それに気づいたとき、僕のYouTubeチャンネルの方向性が少しずつ変わり始めた。
「当てるために見に来る」場所から、
「またこの人の話、聞きに来たい」場所へ。
▼ コメント欄に現れた、もう一つの“競馬場”。
それは、まさに“第二のパドック”のような場所だった。
競馬の話だけじゃない。
馬券を外した悔しさ。推し馬への想い。実況で泣けた日。
そこには、みんなそれぞれの“競馬人生”があった。
僕は、そのすべてに耳を傾けた。
そして、コメントをくれた人一人ひとりに、必ず返事をした。
どんなに短くても、どんなに遅くなっても、絶対にスルーしないって決めていた。
なぜかと言えば──
それはかつての自分と、そっくりだったから。
▼ コメントをきっかけに、僕自身の競馬話を語り始めた。
「僕も昔は、穴ばっか狙って負けてばかりでした」
「血統なんて興味なかったけど、1冊の本がきっかけでハマりました」
「コンピ指数を知ったとき、電流が走ったような感覚でした」
そんなふうに、ひとつずつ。
誰かの言葉に、自分の実体験を重ねて返していくようになった。
文字で返しながら、改めて「ああ、そうだったな」と思い出すことも多かった。
気づけば僕は、予想よりも、自分の歩みそのものを語っていた。
▼ そこから、ようやく見えてきた「自分の届け方」。
再生数でも、バズりでも、インフルエンサーでもない。
“人間・かわな会長”として、ちゃんと伝えていく。
予想だけじゃ伝わらないことがある。
数字の奥には、その人がどうやって競馬を見てきたかがある。
当たった/外れたではなくて、その人の“過程”にこそ、価値がある。
そう思うようになってから、僕は意識して「さらけ出す」ことを大切にした。
かっこつけない。無理に正しく見せない。
負けた話も、ミスした話も、悩んだ日々も、ちゃんと語る。
そうやって、僕自身が“人間味”を持って接していくと、
不思議と、コメント欄の言葉も変わっていった。
「なんか分かります」
「自分も似たようなことしてました」
「競馬って、やっぱり人間ドラマですね」
予想動画のはずが、気づけば共感と会話が広がる“場所”になっていた。
▼ 競馬が「データ」じゃなく「人」によって繋がる場所に。
勝ち負けだけで終わらせるのは、もったいない。
そこには人生があり、背景があり、物語がある。
僕が届けたいのは──
「当たる話」じゃなく、「伝わる話」だったんだ。
▶️ 次回予告:「“投資競馬”という禁断の検証」
予想しない。感覚に頼らない。
ただ、数字と確率とルールで戦う。
そんな“システム的な馬券”に僕が惹かれた理由と、
たどり着いた“意外な結論”を、次回お届けします。